私は銀行員になりたかった(7)


最初に与えられた業務は単純なものだった。

お客様から提供されたインボイスのコピーを一枚ずつ確認し、パソコンでデータを入力する。入力先は買い取った売掛債権を管理するためにうちの銀行が自ら開発したシステムだった。そのシステムをこなすためにはある程度の教育訓練が必要だったが、慣れると非常に使いやすいものだった。インボイスの確認も、債権の真偽を確かめるための基本的なプロセスだった。

このような絶対必要な単純作業がこなせるようになってから、初めてお客様の案件を管理する立場になる。もちろん最初に与えられたのは比較的に簡単で、今までに問題を起こしたことが無い優等生的なお客様のみだった。そして支店から上がってきた契約書の内容をチェックしたり、お客様の取引先にお支払いの内容を確認したりするなど、仕事の内容も管理するお客様の数も次第に多くなってきて、やりがいも感じるようになった。


国内だけではなく、海外の会社に商品を売るお客様も当然いるわけで、その場合はもっと複雑だった。業務終了後の「對帳」(締上げ?要するに一日動いたお金の処理が合っているかどうかの確認。一円たりとも合っていなくてはならない)はいつもドキドキしながらやっていた。


次回はいくつかのエピソードを書きたいと思う。良いお年を過ごしてください。




私は銀行員になりたかった(6)


そもそも「ファクタリング」とは何か。日本国語大辞典の説明を見てみよう。


ファクタリング
〔名〕({英}factoring )売掛債権買取業務。企業が商品などを販売して得た売掛債権や手形を買い取り、それを管理し回収する。




例えば、ある大手デパートはA社から商品を仕入れるとする。デパートはA社に支払う時点は通常仕入れてから2~3か月後になる。A社にとって、デパートに納品した時点で代金を払ってもらえるのが一番ありがたいわけだが、現実的にはなかなかそうは行かない。デパート側の検品、その商品の売れ行き、両者の力関係などなど、商品の代金がA社に入るのは大体納品してから60~90日後になる。


代金(売掛債権)の回収が遅ければ遅いほど、A社は利子の損失だけではなく、場合によって運転資金も圧迫されかねない。中小企業が多い売り手にとって、代金(売掛債権)の回収は早ければ早いほど良いが、相手が大企業の場合はほとんど向こうの条件を飲むしかない。支払う時点に対する売り手と買い手の「期待値」の差が、このファクタリングというビジネスを生み出したわけだ。


例えば、A社が1000万円の商品をデパートに納品したとする。デパートは三ヶ月後に代金を支払うことを約束しているが、A社は事情があって今すぐその代金が欲しい。そこで銀行が出てきた。


銀行がA社に言った。
「その1000万円の売掛債権を譲って頂ければ、今すぐ800万円を出します。」

A社は思った。
「三ヶ月後の1000万円より、今すぐもらえる800万円のほうが助かるな。よし!」

同意したA社に銀行は言った。
「ありがとうございます。それでは、その1000万円の代金は三ヶ月後に弊行に支払うようにデパート側に伝えてください。もちろん、我々もデパート側に事情を伝え、支払先を弊行に変更したことを確認します。三ヶ月後に代金が全額支払われましたら、残りの200万から手数料を差し引いて御社の口座にお振込いたします。」


このようなファクタリング業務契約は一回限りのケースもなくはないが、ほとんどの場合は長期だ。つまり、銀行は売り手の会社の代わりに売掛債権を管理したり回収したりして、その手数料で稼ぐ。売り手の会社にとって、売掛債権を管理・回収する手間が省けるだけではなく、売った商品の代金もすぐに八割ぐらい手元に入るメリットがある。






つづく




私は銀行員になりたかった(5)



住んでいる所からバイクで一番近い駅に行き、そこから電車に乗って一回乗り換えれば本社の最寄駅に着く。駅のすぐ隣に十階程建てのビルがあって、丸ごと本社のビルだった。辞めるまでの二年間はそこで働いていた。

配属された部署は三階にあった。初めて入った時、目を丸くした。上司も含め、そのフロアに居る三十人ぐらいのメンバーは全員女性だったからだ。厳密に言うと男の人は一人居たが、その人は所謂オネエ系の人だった(後々わかったことだったが)。この部署に配属された新人は私を含めて四人居た。男女半々。男女比が如何に偏っているかは皆さんも想像できるだろう。もはや四面楚歌ではない。八面楚歌である。

我が部署は広々としたオフィスの中に三つの「島」を作っていた。右、真ん中、左。それぞれの島は前方から8~10列の机で成され、一列の机に仕切り付きの四人の席が設けられていた。全ての席に人が座っているとは限らない。空席もあり、資料などの置き場所としての席もあった。一つの島は一つのチームで、それぞれの担当支店のファクタリング案件を管理する。偉い人ほど後ろに座り、ぺーぺーの私は左の島の一番前に座ることになった。

ちなみに、私と一緒に入ってきた男性新人は右の島に配置され、そこのチーム長であるオネエ系の男性が彼の上司となった。私のチーム長はアラサーぐらいの女性で、健康的な小麦色の肌と柔らかい笑顔が印象的だった。私の教育係に任命されたのは後ろに座っている三つ上のお姉さん。中島美嘉に似たような雰囲気をしていた。チーム長とすごく仲が良く、これからの二年間は大変お世話になった。




つづく

私は銀行員になりたかった(4)


銀行員になりたかった理由は、給料がいい、聞こえがいい。それだけだった。

当時の大卒初任給は平均2万8千元ぐらいだったと記憶しているが、銀行は3万4千元前後。しかも日本では考えられない待遇が存在していた。

自社の銀行に預貯金がある場合、48万元以内の預貯金は金利18%とする。


18%って言われてもピンとこないかもしれないので、実際に頂いた利子で説明する。

もちろん、私は48万元の大金を持っていなかった。入社して自社の口座を作ってもらった途端、いち早く母に48万元を借りてそのまま口座に入れた。そして毎月5千元ぐらいの利子がついた。給料と合わせたら、毎月4万元近くもらっていた。家賃は3DKのマンションを高校時代の同級生二人とルームシェアして一人4千元~6千元(部屋の大きさによる)だったから、利子だけでほぼ家賃をカバーできた。他の銀行に勤めていたルームメイトもまったく同じ待遇を受けていた。


研修が終わるまで、自分がどの部署に入れられるのかはわからない。振り返ってみれば、教育係たちはきっと研修中の我々を観察したり、適性試験などで我々を分類していたと思う。配属先の発表日に、廊下で一人の男性社員に掛けられた言葉は未だに忘れられない。

「お、君は本店審査部のファクタリングか。おめでとう。あそこは有名な労働集約部署だからな。頑張りな。」


労働集約。有名。その男性社員の微笑みには、「ふふふ」的な成分が含まれていた。しかし多くの同期たちは現場の支店に配属された中で、本店しかも審査部という偉そうな所に配属された私は皆さんに羨ましがられた。



つづく


私は銀行員になりたかった(3)


オリエンテーションは銀行が委託した外部の会社が行うものだった。場所は本社。我々は10人ずつのチームに分けられ、三日の間に色々なゲームや活動を通して得点を競っていた。三百人余りもいたから、ざっと30チーム以上あった。

私がいたチームは男女半々で、終わってみればなんと総合得点一位の優勝を勝ち取った。チームメートの名前は全然思い出せないが、顔は今でも大体思い浮かべることが出来、街ですれ違ったらすぐに分かると思う。みんな優秀な人で、学歴も経歴も私立大学出身で軍隊を出たばかりの私よりはるかに上だった。

優勝チームの賞状と記念品はどこにしまったっけ?今度台湾に帰る時ちょっと探してみよう。ちなみに、私たちのチーム名はローマ字表記のタコだった。その時日本語が分かっていたら少し反対意見を言ったかも。「優勝チームは・・・、タコ!!」今思うと笑いたくなるが、その時はすっっごく嬉しくてみんな大喜びしていた。

オリエンテーションが終わって、三か月の研修が始まった。いや、一か月かもしれない。よく覚えていないんだ。とにかく、「毎日座って話を聞くだけで給料をもらっていいの?」と、自分でも申し訳なくなるぐらい長かった。





つづく


私は銀行員になりたかった(2)


どうやってY銀行を後にし、その時担当者に何を言ったか、どんな顔をされたか、まったく覚えていない。

「大変申し訳ございませんが、先ほど他の銀行から採用の連絡を受けましたので、これで失礼いたします。」

こんな感じかな。たぶん。他に何を言えばいいだろう。私を横取り(?)した銀行の名前を担当者に聞かれたことは覚えている。私も素直に答えた。

とにかく、私は晴れて意中のS銀行に入社した。ちょうどその頃、高校時代のクラスメイト二人も同じ時期に兵役を終え、就職先も決まり、我々は故郷を離れて台北の3DKアパートを借りて三人でシェアすることになった。日本とは正反対に、台湾ではルームシェアが一般的で、一人暮らしは珍しいほうだ。ちなみに、同居するクラスメイトの一人も銀行員だった。看板が落ちれば銀行員に当たる。

同期は三百人余りいた。年はバラバラで、学歴も専攻も経歴も色々だった。他の銀行から転職してきて明らかにオーラが違う人もいれば、まったく見当がつかない人もいて、卒業したばかりでウロウロ気味な人もいた。当たり前だが、私もウロウロ組だった。

いろんな所から選ばれてきた私たちを一番最初に待ち構えていたのは、三日間のオリエンテーションだった。





つづく

私は銀行員になりたかった(1)


2000年の晩春に兵役を終えた私は、四つの銀行に履歴書を出した。書類選考と筆記試験はすべて合格し、その中からY銀行とS銀行を選んで面接に行った。

断わっておくが、当時台湾の銀行は新人を大量に採用するのが普通だった。書類選考と筆記試験を通るのが難しいことではなかった。新人と言っても、新卒じゃなくてもOK。社会人でも主婦でも料理人でも、誰でもエントリーできる。来る者は拒まず、専攻も経験も不問。最初の筆記試験さえ通れば面接を受けられる、筆記試験も市販の本と過去問題を一冊ずつしっかり勉強すれば大抵合格ラインをクリアできる、という時代だった。今どうなっているか分からないが、新卒一括採用という慣習がないのは確かだ。

Y銀行の採用通知が先に来た。入社の手続きを行う日はちょうどS銀行の採用発表と同じ日だった。天の悪戯かと思った。本命はS銀行だったが、受かるかどうか分からない状況だったので、Y銀行の入社手続きを辞退するわけにもいかなかった。

運命の日を迎えた。

健康診断やらなにやらと、受付でもらった色々な資料を抱えて大きな会議室でこれからの入社手続きの説明を聞いた。そして休みの時間に、カバンの中の携帯が鳴った。それは私の運命を決める電話であると、すぐにわかった。




つづく