引越し記 (2)


振り返ってみれば、僕は引っ越しの経験が少ない。

高校を卒業し、実家を離れて台北の大学に進学した時、おじさんに車で荷物と布団と僕と母を送ってもらって、3~4時間かけて田舎の実家から大学近くの学生専用アパートに直行した。その日は台風だった。海沿いの道路を走っている時、車体は何回も強い風で浮かされていた。

その学生専用アパートで大学四年間を過ごした。卒業シーズンに合わせ、ものすごいデカいトラックを借りて引っ越し屋さんを始めた同級生に手伝ってもらい、そのまま実家に帰った。これで二回。

兵役を終えて就職が決まり、再び実家を出た。高校の同級生と三人で台北でアパートを借りて社会人生活を始めた。これで三回。台湾では一人暮らしする人があまりなく、部屋を借りる時は誰かと一緒にシェアするのが普通だ。二年目は全く同じメンバーで他のマンションに移った。これで四回。三年目に突入した直後、僕は日本に留学することを決め、社会人生活にピリオドを打った。また実家に戻った。これで五回。

別に少なくもないような気がしてきたが、続けよう。

そして、2002年の秋に台湾を離れ、東京の日本語学校の寮に入った。これで六回。寮は日本語学校が借り上げた普通のマンションで、埼玉県にあった。3DKの一室に一人部屋、二人部屋、三人部屋と分けられ、台湾人五人、マレーシア人一人だった。毎日埼京線で日本語学校に通っていたが、半日だけの授業なので、台湾語が飛び合う寮にいる時間のほうが長かった。上野の台湾料理屋さんでアルバイトしても、日本人は店長だけだった。一年半のコースがそろそろ終わるというのに、日本語が上達した気がしない。

四面楚歌の状況の中、僕はイチかバツかの覚悟で、日本の国立大学の学部を受験することにした。一校だけに出願した。受かったら日本に残り、落ちたら台湾に帰る。

奇跡的に合格した。本当に奇跡的だった。その時に日本人の彼女がいて、晴れて日本の大学に入ると同時に一緒に住むことになった。僕は埼玉の寮を出て、彼女は千葉の実家を出て、大学の近くの小さなアパートで一緒に暮らし始めた。これで七回。二度目の大学一年生(28歳)の時に彼女が妻になり、四年生の時に息子が生まれ、卒業した後も同じアパートに四年間住み続けた。

そして、今回は八回目の引っ越しだったが、今までの中身と比べるとまるで話が違う。一人が三人家族になったんだ。家の中の物も恐らく30倍ぐらいに増えていると思われる。妻も本格的な引越しを経験しておらず、学生時代の引越しも僕と同居する時の引越しも両親に頼りっぱなしだった(らしい)。

一体どこからどうすればいいんだ?!


つづく
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引越し記 (1)


八年間住んでいた小さなアパートを出ていく日は、大雨だった。

片づけが間に合わず、やってきた引っ越しの業者さんに追い出されたかのように慌てて荷物を段ボールに詰め、さようならを言う暇もなく去っていった。

作業スタートは午後2時半だった。作業員三人は二、三軒ぐらい回っていたようで、みんなびしょびしょ濡れていて疲れているようだった。服はパンフレットのようなキチンとした制服ではなく、よれよれの汚れていた普通のTシャツと普通の作業ズボンだった。トラックの荷台もビニール式のふらふらする屋根で、車全体はおんぼろまでは言わないけど、近かった。安いコースを頼んだからある程度は開き直っていたけど、想像を超えた。

二の腕に入れ墨があった指揮役のお兄さんは終始笑顔一つ無かった。言葉遣いは丁寧だったが、目から有無を言わせないビームが出ていた。それもそうだ。約束の時間に来たのにまだ荷物を段ボールに入れてないお客さんは困るものだ。

しかし彼らは確かにエース級の働きをしていた。30平米未満の部屋にしては決して少なくない荷物を、本当にあっという間にトラックいっぱいに詰め、(家の前の道が狭いから)二往復して全部の荷物と家具を新居に移してくれた。養生などのカバーは適当にやっているように見えるけど、実は要領をしっかり押さえていると思われる。荷物も部屋も傷一つなかった。引越しには恐らく最悪であろう大雨だったというのに、荷物はほとんど濡れていなかった。家具も全部間取り図に書いた通りに設置し、本棚も天井までしっかりと固定してくれた。

三時間ちょっとで引越しの作業が終わった。忘れ物のドライバーセットがあると僕が電話でお客さまセンターに伝えると、あの怖いお兄さんが取りに来た。ほんの一瞬だったが、彼は微笑んだ。

そして60個以上の段ボールとの戦いは、始まった。


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